ヨーロッパ人の自由の概念は、意地を通すこと、つまり、自らの生き方へのこだわりを守り抜くことです。生き方へのこだわりは、日本語で「意地」、ギリシア語では「thymos」(気概)、英語では「dignity」などの言葉で表されます。
尊厳を踏みにじられた人間に生じる怒りをギリシア人たちは万能の感情だと考えていたようです。この影響はヨーロッパ圏の文明全体に及び、英語にも「indignation」(憤り)と「dignity」は語幹「-dign-」を共有しています。
カントやヘーゲルは、原始の人間の中で、尊厳を守るために命を賭けて戦い続けたものが主人となり、命を惜しんで尊厳を捨てたものが奴隷となったと考えました。
近代ヨーロッパはキリスト教の相対化という点では合理性志向ですが、個人の尊厳の尊重という点では非合理性志向です。(尊厳を守るために命を賭けるのは、生物個体の行動としては非合理に決まっています。)
しかしながら、個人の非合理性を社会がある程度許容していくことは、非合理性の「市場価格」を下げることになります。それゆえ、尊厳/生存のレートが下がり、社会の構成員各人は尊厳よりも生存を重視するようになり、社会全体は逆に合理性に向かって結束します。地球温暖化対策を見てみると、ロンドンやスウェーデンの電力会社は政府目標を前倒しにするペースで二酸化炭素排出削減を着々と実現しつつあり、ドイツの運送会社TNTは二酸化炭素排出量を相対的にゼロにする目標を掲げ、それが株式市場でも高く評価されています。
対して、意地を通りして自由になれる機会が乏しい ― 夏目漱石のの『草枕』に「意地を通せば窮屈だ」という言葉があります ― 日本では、かえって尊厳/生存レートが高騰し、全体の生存に向かう合理性に結束できません。
日本の社会構造そのものが変革を必要としているのです。