死刑制度が排除するもの 

刑事訴訟の結果として執行される刑罰は、被害者やその遺族の復讐の権利の代行でもある。被害者の個人的な立場からは、復讐の代行者である法は万能であることが望まれるため、死刑制度が作られ、維持される機運が生じている。

一方、哲学の側からは、死刑によって何が排除されるのかを考えなければならない。冤罪の可能性については既に語りつくされている感があるから、ここでは別のことを考えてみる。

凶悪犯罪者が幼少時代に虐待を受けていたとしたら、殺人が行われたことの理由を作りだしたことについて、犯罪者を幼少時代に虐待した人間には部分的に責任があるかもしれない。

同じような虐待を受けて育ちながら、凶悪犯になる人もいれば善人になる人もいるが、その場合、両者を分けるものは何なのだろうか?

善人には、誰かが救いの手を差し伸べたのかもしれない。もしそうであれば、凶悪犯を死刑に処すことで社会が排除するものは、凶悪犯の人生における不運に他ならない。

同じように虐待を受けて育ち、さらにその後に救いの手を差し伸べる人が特にいなかった場合にも、やっぱり凶悪犯になる人と善人になる人はいるだろう。この場合、両者を分けるものは何なのだろうか?

持って生まれた気質かもしれない。もしそうであれば、凶悪犯を死刑に処すことで社会が排除するものは、凶悪犯の遺伝子に他ならない。


[2008/01/05 10:36] 無分類 | TB(0) | CM(0)