「性別にはセックスしかない」という日本の保守的な意見を英語に翻訳しようとすると、ちょっと難しい。「There are only sexes to sexes」あるいは「There are only sexes in sexes」あたりになるんだろうか? こういう意見は日本独特のもので、アメリカやヨーロッパの保守派からは出てこない。
この保守的な意見の支持者の言動には、いろいろと矛盾がある。
まず、「セックスしかない」が仮に真理であったとしたら、ジェンダー平等論反対者がジェンダー平等論者に反対する理由すらなくなる。本当に「セックスしかない」のであれば、ジェンダー平等論に人いくらさらされても、男女の関係に変化はないのだから、ジェンダー平等論は保守派にとっても誰にとっても、人畜無害のはずなのだ。
ジェンダー平等論者も、ジェンダー平等論反対者も、結局はジェンダーというものがあることは全面肯定している。だからこそ、ジェンダーを巡って、両陣営間で全面的な対立がある。
ジェンダー平等論反対者は性教育に反対する傾向がある。これは奇異なことだ。性教育の内容はほとんどセックスについてのものだから、ジェンダー平等論反対者にとってむしろ有利なはずだ。この件について、今のところジェンダー平等論反対者から論理的な説明を私は聞いたことがない。
日本の保守派を大づかみすることを試みると、日本の保守派の心情は、西尾幹二の
集団就職が盛んだった時代、(就職先の社長らの勧めで、青年たちは)何も文句を言わないでどんどん家庭をつくって、うんと子供を産んで(略)日本は生命力にあふれていました。個を無視しているからいけないとか、自己決定がどうとか、そういうくだらないことは誰も言わなかった
という発言にほぼ要約されていると思う。
ジェンダーとかセックスとかについて考えることや語ることは日本では進歩的なことだったから、保守的な彼らが条件反射的に噛みついているだけなのだ。
(ところで、集団就職が盛んだった時代のつけが溜まって、今の日本人が苦労しているんだから、やっぱり猪突猛進主義じゃ後が辛くなることは明らか。未来の自分の姿を現時点であらかじめ捉えようとすることこそ、知恵の本質だ。古今東西の成功哲学には、必ずこれが含まれている。)