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Chaotic Neutral

左にも右にもよらず、自由な生き方探し。

知識人の大転び ― 靖国だけで満足しそうな花岡信昭


http://www.sankei.co.jp/seiji/shusho/070808/shs070808001.htm

ここは安倍首相が進めようとしていた本来の路線を「ぶれず、愚直に」突き進む以外にないのではないか。

具体的な課題としては、テロ特措法の延長、集団的自衛権の見直し、国家安全保障会議(日本版NSC)の創設などが待ち構えている。粛々・堂々と進めていけばいい。民主党内にも支持派は存在するのであって、真正面から打ち出せば民主党の内部分裂を促せるかもしれない。

そうした「保守らしさ」の象徴的なものが「8・15靖国参拝」だろう。小泉純一郎前首相はこれを総裁選の公約とし、「8・15」は微妙に回避しながらも毎年の参拝を続けてきた。これが保守層の支持拡大に貢献したことを改めて想起すべきだ。保守層にとって靖国は格別の意味合いを持つのである。

先の参院選で、少なくとも有権者の3割は年金問題、2割は格差問題を重視して投票したってのに、ここで安部内閣が生活案件よりも軍事と靖国を優先させれば、少なくとも安部政権は、そしてもたもたしていれば自民党も終わってしまう。

テロ特措法を延長しなくても、日本は困らない。アメリカだって困らない。集団的自衛権は、もともと。アメリカに向かって発射されたミサイルを日本が撃ち落とせるようにする法整備論から出てきた話だけど、肝心の対弾道ミサイル防衛システムが完成するのは将来の話。国家安全保障会議があるかどうかは、国家安全保障にあまり関係がない。危機は会議を待ってはくれない。

靖国参拝は保守層に受けが良い。けれど、保守層は社会階級じゃない。彼らに媚を売っても、安定した支持を得られるとは思えない。

(それにしても、保守層についての花岡の見解が妥当だとしたら、保守層って単純馬鹿の集まりだってことになる。保守諸君、君たちは馬鹿にされているのだよ。)

語学 ― 伝達速度と非定型的表現 ― II


(参照: 語学 ― 認知速度と非定型的意味の伝達 ― I

軽い要素を前に、重い要素を後に置くことそのものは、認知速度を増やしも減らしもしないが、認知速度が大きいことの結果として、軽い要素を前に、重い要素を後に置きたくなる。

重要性は同じでも、1時間かかると思われる仕事と9時間かかる思われる仕事があるとする。

持ち時間が10時間あるいはそれ以下であれば、人間は1時間の仕事の方を先にやりたがる。なぜならば、1時間の仕事を先にやれば、少なくとも1つの仕事を終わらせることができることはほぼ確実だからだ。

一方、持ち時間が10時間ではなく10日間であれば、1時間の仕事を優先させたいという気持ちが弱まる。

これは私の推測だが、会話における意味伝達について、せっかちな社会とそうでない社会がもともとあって、それが語順を決める大きな要素になっているようだ。大きな文明圏の中央ではせっかちな社会ができ、辺縁ではそれほどせっかちではない社会ができる。

フランスはヨーロッパのど真ん中にあり、西には大西洋と新大陸、南には地中海を隔ててアフリカがあり、東には非イタリック語族の話者が住むドイツがある。多様な文化が交差し、非定型的な意味伝達を強いられる局面が多くなる社会環境があったため、他のイタリック系と比較しても、フランス語では省略表現が少なく、それゆえせっかちにならざるをえなかった。語順が高速言語らしいSVOとSOV混在型であるだけではなく、代名詞が擦りきれたように短くなっている。

現代の英語は結構高速だが、ヨーロッパ大陸との交流がそれほど盛んではなかった時代の古英語は、かなり低速な言語だった。古英語の叙事詩『ベオウルフ』から文を1つ抜き出してみよう。

Hwæt, we Gar-Dena in geardagum theod-cyninga thrym gefrunon. (おお、我ら昔の年月日々の槍のデーン人は、国民の王たちの誉れを聞いた)

「Hwæt」は現代英語の「What」に相当するが、ここでは注意を喚起するための語として使われているので、「おお」と訳しておいた。「we Gar-Dena in geardagum」は文の主語で、「我ら昔の年月日々の槍のデーン人は」を意味する。「theod-cyninga thrym」は「国民の王たちの誉れを」を意味する目的語で、「gefrunon」が動詞だ。目的語の位置は低速言語である日本語と同じである。

知識人の大転び ― コシミズと組んでる天木直人


天木直人はリチャード・コシミズの講演会を応援していて、コシミズといえば、国際政治で日本に不利なことが起これば全部ユダヤ人のせいにするし、ナチスによるユダヤ人虐殺の歴史事実を否定するし、劣化ウラン弾を無害だといいはるなど、奇行の目立つジャーナリストだ。

天木は孤独なんだなぁ、と思う。なにせ、これほど
http://www.amakiblog.com/profile/
の輝かしい経歴のある人だから、面と向かって批判する人が内部に少ない。コシミズとは組まないほうがいいとわかっている人は九条ネットにもいるんだろうけど、天木に意見しようにも格で負けが大きくてどうしようもない。

知識人の大転び ― チャートを読めない中山忠夫


参院選、あす投開票 大敗のたびに景気失速 参院、やっぱりいらない?
http://www.business-i.jp/news/sou-page/news/200707280022a.nwc

サンケイの中山忠夫はチャートも読めないらしい。私が代わりに読んであげよう。

・1986年の自民党勝利 → 1989年の株高(相関)
・1989年の自民党敗北 → 1992年の株安(相関)
・1992年の自民党勝利 → 1995年の株安(逆相関)
・1995年の自民党敗北 → 1998年の株安(相関)
・1998年の自民党敗北 → 2001年の株安(相関)
・2001年の自民党勝利 → 2004年の株安(逆相関)
・2004年の自民党敗北 → 2007年の株高(逆相関)

回数では、相関が多いけれど、2001年の自民党勝利と2004年の株安の間には、バブル崩壊後最安値が存在する。統計的な有意性は希薄だ。

株価で日本経済を語るのならば、日本経済は自民党がなくてもやっていける、ということになる。

語学 ― 伝達速度と非定型的表現 ― I


日本語は基本的に伝達速度の小さい言語だ。

高速

ヘブライ語
フランス語, スペイン語
英語
ドイツ語, 中国語
ロシア語
日本語

低速

同じ意味を省略表現なしで伝えた場合に、伝達速度の大きい言語は小さい言語より短時間で伝えることができる。

一般に、伝達速度の大きい言語は文の軽い要素を先に、重い要素を後に置こうとする性質が強い。

「私は私が昨日買ったその本を読む」は、「私は」「私が昨日買ったその本を」「読む」に分けられ、一番重いのは「私が昨日買ったその本を」という部分だ。

英語は日本語より伝達速度が大きいので、「I read the book that I bought yesterday」になり、「the book that I bought yesterday」という重い部分は最後に置かれている。

この重い部分が代名詞になった場合を考えてみる。

「私はそれを読む」という日本語文では、代名詞「それを」のほうが、数少ないものから選ばれているという点で、動詞「読む」より軽いかもしれない。英語では「I read it」であり、「it」は「read」より明らかに軽いが、英語は「I it read」とはいうほどに速くはない。

英語よりもさらに速いフランス語では、一般にSVO型の文を作るが、目的語が代名詞である場合には、語順がSOVになる。

「Je lis le livre que j'ai acheté hier」の目的語「le livre que j'ai acheté hier」は文の最後に置かれているが、「Je le lis」の目的語「le」は動詞よりも前に来ている。

日本人にとって英語でのやり取りはとても速く感じられるが、フランス人にとって英語はそれほど速く感じられない。

伝達速度がとても小さい日本語では、各単語の音節数も多めであるため、日常会話においては文のあちこちを省略する。

「私は私が昨日買ったその本を読む」→「私は昨日買った本を読む」

そのため、日常の定型的なやり取りで、日本人が不自由さを感じることはない。しかし、話がややこしくなってくると、日本語の伝達効率はどんどん低下する。例えば、「私はあなたが昨日買ったその本を読む」の「あなたが」は省略できない。定型的な「私は昨日買った本を読む」と比べれば、もっと非定型的な「私はあなたが昨日買った本を読む」では音節数が増え、文がずっと長くなる。

非定型的な内容を伝達しようとする際に、日本語では伝達効率が大幅に低下する。日常会話と比べると、議論ははるかに非定型的なので、日本人は議論を面倒くさいと思う傾向がことさら強い。一方、伝達速度がもともと高速なフランス語では、日常会話と議論とで伝達効率にあまり差がつかないため、日本人と比べて、フランス人は一般的に議論を好む。「カフェでの話題の90%は政治ネタだ」というあるフランス人の言葉は正確ではないけれど、実情からまるでかけ離れているということもない。

同性愛者 ― I


あるネコ男性のメールマガジンを1年くらい購読していてわかったことは、同性愛者の間で、タチ優位は男女共通らしいということです。純度の高いネコ男性は女性を受けつけず、たとえ交際が始まっても、「どうして何もしてくれないの?」という女性の問いに、「ごめん、僕、男しか愛せない体なんだ」という感じの答えしか出せなかったりとか……そしてこのネコ男性にはタチ男性である恋人がいて、タチ男性にはノンケ女性の恋人もかつてはいたとか……

こういう話、確かに面白い。でも、最近アニメオタクなネコ男性と話す機会が多くて、その人とのやりとりから、ノンケ、タチ、リバ、ウケ(ネコ)やその中間や混在型それぞれに、性愛以外の面でも違いがあるはずだ、と私は思うようになった。

このネコ男性は仕事上の問題に悩んでいる時に口数が多くなる。その兄はノンケで、問題に直面している時には言葉数が少なくなる傾向があった。

アニメオタクなネコ弟は熱中している作品が作られた時代背景に興味が薄いが、一方、その作品の各シーンの構図や色彩には鋭いことをいう。洋楽オタクなノンケ兄はあるバンドに影響を与えた過去のバンド、その過去のバンドに影響を与えたもっと過去のバンドに強い関心があって、絶版になっているレコードなどを探して中古レコード店を巡っていた。

映画評論家として背景を全く語らないということはないにせよ、おすぎは水野晴男のような「映画百本ノック」みたいなことはやりそうにない。水野晴男はおすぎみたいな「●●さんって才能ない人だと思うのね私は。 なぜかって言うと、●●さんの所のスタッフだからものすごくきれいな絵なんだけど、でもそこにさ主人公たちがいるのって、必ず2人いてさ、ロングで引いてさ、向き合ってさ、なんだかさ素人みたいな●●●●●●●なのよ。それで話はつまらないし」なんてことはいわない。