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Chaotic Neutral

左にも右にもよらず、自由な生き方探し。

アイデンティティー論 ― アイデンティティーと属性


Re: http://reviva.blog1.fc2.com/blog-entry-237.html#comment564

 アイデンティティーは属性の集合体ではありません。
 住所、職業、嗜好の変化はアイデンティティ ― その人がその人であること ― を弱めません。肉体を部分的に失うことがあっても、アイデンティティーは弱まらないのです。いや、人のアイデンティティーは人が死んでも全く弱まりません。
 もちろん、人が変化すれば、その人をその人として認識することは、他の人にとって難しくなります。人の変化によって弱まるのは、アイデンティティーではなく、アイデンティフィケーションです。

アイデンティティーと距離


あなたを私が「私」と呼ばないのは、私自身とあなたの間に距離があるからだ。そして、私が私自身を「私」と呼ぶのは、私と私自身の間に距離がないからだ。

宇宙では空間の共有が許されていない。2つの事物が空間上の同一の位置に同時に存在することはない。アイデンティティー認識の本質は、宇宙についての最も基本的な理解に深く関わっている。

アイデンティティー論 ― アイデンティティーとアイデンティティー認識


アイデンティティー(identity)を錯覚ではないと考えるならば、「私は私である」はアイデンティティーの認識(つまり、identification)として錯覚ではない。なぜなら、私が私自身を指して使う「私」は一意であり、アプリオリに誰を指すのかが明らかだからだ。その一意性は、アイデンティティーを仮に錯覚ではないと考えるのならば、その他の過去の精神活動の蓄積物から独立して存在する。ゆえに、記憶を完全に失っても、アイデンティティー認識は消えない。

アイデンティティー論 ― 自明性


アイデンティティーは過去の精神活動の総体でもないし、そこから生み出される自己についての考えでもない。記憶を完全に失い、言語の記憶さえ失ってしまった人にも、なお「私は私である」という認識が存在する。もしその認識が存在しなければ、自分と他人を見分けることもできない。

アイデンティティー論 ― 錯覚


アイデンティティは同クラスの他とは共有されないもので、個人にとってのアイデンティティは他の誰とも共有されない、"私"という言葉が指し示す何か、である。

一方、"日本人"は誰かと共有される何かを指し示す言葉だ。

よって、各個人のアイデンティティを指し示す言葉として"日本人"は妥当ではないことになる。妥当ではないことを妥当だと思い込んでいるということは、そこに何らかの錯覚があるということだ。